深田 上 免田 岡原 須恵
幻の邪馬台国・熊襲国(第17話):アナザーストーリー (5)

17.その2 九州の「原=はる・ばる」は「懇る」が語源

2)「はる」は墾(は)

 昭和44年発行の広辞苑(第2版)で、「はる」を引いてみると「懇(は)る」があり、意味は、新たに土地を切り開くこと、開墾する、とある。沖縄在住の山口氏に調べて頂いた角川書店の沖縄県地名大辞典には、「原」は畑を指すが集落地や原野などにもつけられた、とあるそうである。また、沖縄語辞典(内間直仁・野原三義編著、研究社、2006年)には、「はる」は屋敷外にある畑や耕地を指す、とあるそうである。
同じ広辞苑で、今度は「原」を引くと、 原は平らかで広い土地、耕作しない平地・原・原野とある。どうやら、「はる」や「ばる」は人が耕した平らな畑や耕地のことであり、「はら」や「ばら」は耕されたことのない自然原野のことである。

 そういえば、球磨郡あさぎり町上地区の「神殿原(こうどんばる)」の岡原地区は、「開墾」と呼ばれる集落がある。ここは戦前からの開拓地で、戦時中は陸軍の飛行場があった。戦後は、近隣の人達がカライモを作っていて、筆者の家にも開墾畑があり、よく手伝わされた。土は黒ボクくろぼく土:火山灰と植物性有機質土が混在したもの)で、カライモの白い汁(ヤラピン)が手についたまま土に触ると、まだら模様に黒土が手指に付着し、水で洗ったくらいでは落ちず、農発(農業用発動機)の燃料で洗うとよくとれた覚えがある。
沖縄の小字地名、原名(はるな)のしきたりが、この地方にも伝わったとすれば、ここは昔、「こうどん」という場所であり、人が耕して畑にしたところなので「はる・ばる」を付けて「神殿原(こうどんばる)」になったと予想できる。

 錦町木上の「高原(たかんばる)」も開拓地であった。戦前からの開拓地で、戦時中は海軍の飛行場があった。今は、「秘密基地ミュージアム・海軍人吉航空隊跡」として往時の戦跡が保存・公開されている。開拓は戦後も続き、昭和26年には開拓団で亡くなった人達を供養するため仏像をつくり、その仏像に魂を入れるための開眼供養(入仏式)も執り行われた。

 「原はるばる地」で最も知られているのは、「たばるざか」、「田原坂」であろう。ここは名の通り、標高差約80mの坂があり、標高が約100mの台地である。近くには西原(にしばる)」や「平原(ひらばる)」という「原はるばる」の地があり、人によって懇(は)られた、耕された土地であったと思われる。宮崎県には、古墳群で有名な「西都原(さいとばる」がある。ここは最も高い場所でも80m位の台地であり、古代より斉殿原(さいとのはる)と呼ばれていた開拓地で、江戸時代の「さいとのはる」を経て、現在の「さいとばる(西都原)」の呼称となったと言われている。
宮崎県でもう一つの有名な「原はるばる地」は航空自衛隊第5航空団の基地であり、国内最高技量のパイロットで編成された基地として知られる「新田原(にゅうたばる」である。この新田原という地名は福島県南会津郡にもあり、そこの読みは「しんでんはら」である。長崎県諫早市や福岡県行橋市にも新田原があり、JR九州の日豊本線には「新田原駅」がある。やはり九州である。ここでの読みは「しんでんばる」である。

 「九州での「原」は「はる・ばる」であるというもう一つ例がある。新田原基地の北東15Kmほどのあたりが宮崎県児湯郡川南町である。ここには日本三大開拓地の一つである川南原(かわみなみばる開拓地がある。ちなみに、残りの二つは、青森県十和田市の三本木原(さんぼんぎはら開拓地と福島県矢吹町の矢吹ヶ原(やぶきがはら開拓地である。3ヶ所とも、人が長年にわたり耕してきた開拓平原であるから「原」である。しかし、その読みは、青森県や福島県の開拓地の原は「はら」であり、宮崎の開拓地の原は「ばる」である。

 「原はるばるの地」が人の手が入った耕作地であり、「原はらばら地」が自然のまま山野平原だとすれば、標高に差異があると考え、人吉球磨地方と鹿屋地区の「原はるばる」と「原はらばら」地の標高を調べてみた。その標高差が表1であり、人吉球磨地方の「原はるばる地」の平均標高が図50である。

標高
表1. 「原はるばる地」と「原はらばら地」の標高

人吉球磨の標高
図50. 人吉球磨地方の「原はるばる地」の標高

 まず図50において、人吉球磨地方における「原はるばる地」の標高は、水上村の朴木原(ふうのきばる)を除くと、大体標高200m前後である。これは、拙著、「縄文人は肥薩線に乗って」(熊日出版、2014年)でも明らかにしたように、球磨地方における縄文から弥生時代にかけての遺跡のある場所の標高と同じである。そこは、人が原野を耕し、住み着いた場所の証でもある。

 朴木原を除いた人吉球磨地方の「原はるばる地」の平均標高は、表1に示したように211m、自然原野の「原はらばら地」の標高は410mと倍ほど高い。同じ傾向が鹿児島県の鹿屋地区でも見られ、「原はらばら地」は倍ほど高い。このように、この「原はるばる地」の分布は、一つの居住環境を示していることがわかったので、次に遺跡分布との類似性をみることにした。それが図51である。図の左が「原はるばる地」の分布であり、右は、縄文時代の遺跡分布である。両分布には類似性があり、前述のように、地名は人の居住環境と密接に関係していることがわかる。
 また道草話であるが、沖縄本島北部の標高、数百メートルの低い山林地帯を山原(やんばる)といい、そこに生息する鳥が天然記念物の山原水鶏(やんばるくいな)である。山原は、人とのつながりのある山であることがわかる。

「原はるばる地」と縄文遺跡
図51. 九州本土における「原はるばる地」(左)と縄文遺跡の分布図(右)

3)「原はるばる」呼称の本家本元

 「原(はる)」は、「懇(は)る」が語源であると述べてたが、この「はる」はどこからの言語なのだろうか。前話でも少しふれたが、「はる」は韓国語の「パリ」が語源とする説は民俗学者であり、地名学者でもあった水俣出身の谷川 健一氏である。それは、沖縄県の宮古島では「原」のことを「バリ」と呼ぶことに注目してのことである。

 「そこで、ウイキペディアで韓国語の「パリ」などを調べてみると、韓国語でパリは「早く」とか「急いで」の意味とあり、「パル」は数字の8、腕、足のこととあり、「ハル」は一日のこと、「バル」は軽飲食店のこととあって、どれも耕地とか畑とか原などの意味はない。ただ、「支石墓の謎―前方後円墳・天皇の源流」(学生社、1979年)の著作で知られる光岡雅彦氏の「韓国古地名の謎」(学生社、1982年)には、韓国の古地名で、「村落」を意味する「ポル(伐)」があるとのことである。これが語源である可能性は高いが、そうであれば、なぜ朝鮮半島に最も近い福岡県の「原はるばる地」は少ないのだろうか。福岡県の隣りの山口県や対馬海流の流路にあたる島根県や鳥取県にも「原はるばる地」はあってよさそうであるが皆無である。したがって、この韓国語由来説では、九州北部で「原はるばる地」が少なく、山口県には皆無であること、ないしは朝鮮半島から遠い沖縄や南九州に「原はるばる地」が多いことの理由は説明できない。どうやら「原はるばる地」の源流は、沖縄よりもっと南方にありそうである。確認はしていないが、台湾の原住民やニュージーランドの先住民・マリオ族は、原を「パラ」といい、マレー半島の山地民であるサカイ族は「バル」と発音するそうである。

 これは南方伝来説に有利であるが、これで、九州だけの「原はるばる地」呼称の謎解きができたわけではない。実は、九州北部から朝鮮半島方面に連なる島といえば、日本海に浮かぶ壱岐島や対馬島である。対馬の北西部から朝鮮半島の岬まではわずか50Kmである。その対馬の「原はるばる地」は2か所、壱岐島にも2ヶ所ある。その一つが代表的な弥生時代遺跡の原の辻遺跡はるのつじいせき)である。これら二つの島は、南方からの伝来説では遠すぎる。しかも「原」を「ばる」と発音する民族は東北アジア地方にもあり、たとえば、中国東北部の旧満州地域では、「原」を「ハリ」と言うそうである。また、蒙古語では「原」は「ハラ」、アイヌ語の「パラ」は「広い」の意味だそうである。

 字(あざ)は、市町村内を小区分した地名表示のことであり、もともと開墾された田畑区域をさす呼び名であった。島原半島を除けば、長崎県の市町村の字は「触」「郷」「免」がほとんどである。例えば、壱岐島の壱岐市には109の町があるが、そのうちの106の町名の最後は「触」である。彼杵郡は東も西も「郷」であり、北松浦郡佐々町や松浦市は「免」である。沖縄県の小字は「原」であり、開墾地や畑の意味だと書いたが、「触」「郷」「免」は、行政との関りを示すものであり、畑や耕地の意味はなさそうである。これらを勘案すると、「原はるばる地」の謎も複雑である。言葉に方言があるように、「原」の「はる・ばる」読みも漢字方言なのか、漢字の移入と地名の漢字化の名残りなのかである。

4)「原はるばる」は遥か万葉の時代から

 中国東北部の旧満州地域では、「原」を「ハリ」と言い、沖縄県の宮古島では、「原」を「バリ」と読むと先に紹介したが、ハリ(墾り)は動詞ハル(懇る)の連用形であるから意味に大差はない。したがって、「ハリ」の地名も開墾地や開拓地、及び新田地であることを意味している。このような意味を持つ「ハリ」は「懇り」だけではなく、「張」、「治」、「針」、「開」、「畭」、「萩」など幾つかの漢字があてられており、単にカタカナの「ハリ」の字地名もある。
 たとえば、徳島県板野郡松茂町広島地区には、南ハリ、北ハリ、中ハリ、小ハリという字地名があり、隣町の板野町や北島町にも同じカタカナの「ハリ」字地がある。いずれも旧吉野川沖積層を開拓・開墾してできた新田地(現在は住宅・商用地)である。この松茂町は、明治22年の町村制施行によって10地区が合併してできた町であるが、10地区の内の半分が「○○新田」という字地名である徳島県の阿南市には畭町(はりちょう)がある。「畭(はり)」とは新たに開墾した田んぼや耕して間もない田地のことであり、また、山林を焼いて造成した耕作地や焼き畑のことでもある。

 先の第15話で、九州に近い愛媛県南予地方にも「原はるばる地」はないことを紹介したが、愛媛県北東部には「ハリ」の地があった。愛媛県の今治市(いまばりし)である。この「治り」もまた、墾(はり)や開(はり)であり、開墾地のことである。今治は、「いまハル」「いまハリ」とも言い、「今張」「今針」「今墾」とも書く。いずれも、新しい開拓地であることを意味していて、新治(あらハル)(にいハリ)(にいバリ)(にいハル)(にいバル)(にんバリ)(にんバル)と発音され、意味は同じである。
 ところが、徳島県板野郡の松茂町や板野町及び北島町には「原」のつく地名が5~6ヶ所あるが、読みは「はる」や「ばる」ではない。松茂町には「○○開拓」という字地名もあるが、やはり「はる」や「ばる」でなく、「はり」「ばり」でもない。阿南市でも、今治市でも「原」の地名はあるが「はる」や「ばる」ではない。九州や沖縄では、開墾地は「原」は「はる・ばる」であったが四国の徳島県や愛媛県では、開墾地は「はり」と呼ばれていることがわかる。

 奈良市の高台、標高450mほどと所に針町(はりちょう)がある。「針」も「懇り」であり、開墾地であるから、ここは大和高原の一角であり、古代より入植・開拓されてきた地である。奈良市には「原」のつく町名が八つほどあるが、読みは「はら」や「わら」である。
 このように、開墾・開拓地であった地が「はり」や「ばり」と呼ばれる地域は、各地にありそうであるが、開墾地の「原」を「はる」とか「ばる」と呼ぶのは、なぜか九州や沖縄地方だけである。開墾地が「はり」とか「ばり」と呼ばれていたのは今から1350年も前の万葉の時代からであることが分かった。

 万葉集第7巻1110番歌に、「新墾(あらき)」という文言の入った歌が収められている。
        湯種蒔 荒木之小田矣 求跡 足結出所沾 此水之湍尓 (作者不詳)
訓読は、ゆ種蒔く あらきの小田を 求めむと 足結ひ出で 濡れぬ この川の瀬に、である。
意味は、斎種(ゆだね)を持ち、足結ひ(あゆひ)をして新規開墾田の適地を求めて家を出立したのはいいが袴を濡らしてしまった、この川の瀬で、である。
斎種(ゆだね)とは、新規の開墾田に最初に蒔く祭儀用の種籾(たねもみ)のこと。「荒木(あらき)」は「新墾(あらき)」で、「にいばり」とも読まれ、新しく開墾した土地のことである。改めて、「あらき」を昭和44年版の広辞苑で引くと「新墾」「新開」「荒開」とあり、新たに開墾した地とあり、「新墾田」や「新墾治」は新たに開墾した田とある。

 万葉集第12巻2855番歌には「新治(にいばり)」という文言が入った歌がある。
           新治 今作路 清 聞鴨 妹於事矣  柿本人麻呂
訓読は、新墾の 今作る道 さやかにも 聞きてけるかも 妹が上のことを、であり、
意味は、新らしく作られた道が爽やかなように、あなたのこともはっきり聞いてしまいましたよ、である。
その他、奈良時代の初期に編纂された風土記にも「新治(にいはり)」の文言がある。これらの事実から「はる・ばる」の連用形である「はり・ばり」を開墾地と呼ぶルーツは飛鳥時代であることがわかる。 それまでの「はる」とか「ばる」という地名も文字ではなく「ことば」であったものが漢字の移入や地名の漢字化によって九州では「はる」や「ばる」には「原」の字が当てられたというわけである。

 さて、この「原はるばる地」の話が、邪馬台国や熊襲国の話と何の関係があるのかである。それは、図51に示したように、「原はるばる地」は縄文時代の遺跡の分布にほぼ一致している。このことは、「はる・ばる」は縄文語であったかも知れないのである。
南方からの縄文人居住地に弥生人という民族が渡来し、新たな技術や文化で先住民を支配するようになった。小字など地名呼称の継承も民族の移動・移住の証であることを述べたかったからである。しかし、それが九州地方だけに限定的なのは、弥生時代の九州倭国の治世と何か関係があるものなのか、真実は不明である。読者諸氏のご所見を募る次第である。

5)終わりに

 筆者はこれまで、ほとんどを魏志倭人伝の記述内容を基にして述べてきた。我が国には、記紀(古事記と日本書紀)という最古の歴史書があるが、これらは権力者に都合よく、恣意的に編纂されたものと考え、信憑性において、魏志倭人伝に勝るものではないと判断したからである。しかし、記紀の編者は、上層からの制約があるなかで、神話の形で可能な限り史実を記録に留めようとしたと思えてならない。とくに、天孫降臨の話、つまり、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、襲國(そのくに)・熊襲国に天降り、曾孫の磐余彦(いわれびこ・後の神武天皇)が東征にあたって、九州や瀬戸内地方を制圧し、大和王朝の礎をつくったという話は、本当にそうなのかである。九州倭国こそ、大和王権の礎となったのではないか、九州人にとっては推考してみるべき内容である。
 そこで本稿は、神話や故事、魏志倭人伝の記述内容、西日本における遺跡や遺物などを傍証とし、さらに邪馬台国畿内説根拠の一つであった伝世鏡の手ずれ問題を実証的に解明するなどして邪馬台国九州説の妥当性を述べ、さらに九州倭国の存在を提唱した。しかしまだ、不確定要素は多く、江戸時代より何百年も議論されてきた邪馬台国や熊襲国は、やはり幻であった。 (了)

                              

謝  辞

 大学を定年退職したら、「幻の邪馬台国」や故郷の「熊襲国」を自分なりの視点で探りたいという願望があり、このたび、本望を  あさぎり町ふるさと関西会 のウエブサイトで披露することができ、誠に感謝にたえません。
総93ページの拙文にお目通しいただいた方は、延べ人数で1570余名、激励や甘辛コメントは200通ほどいただきました。これらの方々は、元大学教授の方や高校の先生、名城大学の元同僚やゼミ生、会社の元社長さん、人吉球磨町村役場の方、各ふるさと会員の方、それにふるさとを離れて、遠くは北海道や沖縄に在住されている方でありました。ここに改めて厚く御礼申し上げます。
 掲載にあたりましては、あさぎり町ふるさと関西会の種村康富副幹事長には、細部にわたってお目通し頂き、誤字や脱字をご指摘いただき、修復し、時には適切な助言や資料をいただくなどして、四ヶ月にわたり準備と編集の労をとって頂きました。ここに深甚の謝意を表します。

杉下 潤二 (2020/9/23)   
一寸ひと休み


編 集 後 記

 杉下様から「原をばると読むのは九州だけ」と教わったのは、昨年の10月。70年近く前の中学時代からの疑問が、今回作品の原点だそうです。
 今年の6月20日、TBSテレビの報道特集で “「ダム予定地に生まれて」川原地区” というタイトルで、約半世紀・48年前に決まった長崎県石木(いしき)ダムの建設反対の地で生まれた女子学生のことを放送していました。
 川原は、「かわはら」と読むのではなく、「ごうばる」。ふるさと あさぎり町に流れる免田川(めんだごうと杉下様の第16話にある原を「ごう」と読む地。東彼杆郡川棚町川原は、第17話の図51左図で、長崎県では21以上の地にあるそうです。

 前置きが長くなりましたが、あさぎり関西会での杉下様の作品掲載は「ヨケマン談義」、「ヨケマン談義番外編」に続く3作目です。番外編と今回の「幻の邪馬台国・熊襲国」は書下ろしです。
 WEB掲載原稿を作りながら、子どもの頃に床の間に飾ってあった「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」の掛け軸の意味など色々と勉強させて頂きましたことに感謝しています。
 「幻の邪馬台国・熊襲国」を一人でも多くの方に読んで頂き、大和王朝の初代天皇や伊勢神宮の主祭神が我々九州人のご先祖であることを知っていただいて、奈良県橿原(かしはら市に在る橿原神宮や年間800万人もの方が参詣する伊勢神宮等への思いが新たになれば幸いです。

 6月24日から毎週水曜掲載の15週間お付き合い頂き、ありがとうございました。
第15話「よみがえった邪馬台国・九州倭国」は、頂いた初稿にはなかったもので、第1話から第14話までを読み直していく中で、杉下様の「幻の邪馬台国・熊襲国」のまとめとして追加になったものです。だから、読み応えがあります!

 ご感想・ご意見等を杉下様宛にメール(jun2415@m6.cty-net.ne.jp)して頂ければ、“晴耕雨読”、もしかすると…4作目の励みになることと思いますので、宜しくお願いします。

 「原」を「はる」とか「ばる」と呼ぶのは九州だけである理由が、どうしてもわかりません。
読者諸氏のなかで、このことについてご所見をお持ちの方は、
当会あてにメール (クリックでメールページにジャンプ)をお寄せいただければ幸いです。宜しくお願いします!
差支えなければ、ご所見を本サイトで紹介したいと思います。


 末尾になりましたが、今一度、「ヨケマン談義」と「ヨケマン談義番外編」をご覧いただければ、これまで知らなかった人吉・球磨の歴史に出逢えることと思います。

種村 康富 (あさぎり町ふるさと関西会副幹事長) 2020/9/30  
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